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@hitoshi annexがはてなに引っ越してきましたよ

飯野さんありがとう

「ありがとう」なんて言葉は、相手が生きている間に、直接相手に言わなかったら意味ないんだよ。
そんなことわかりきってるのに、でも、結局ちゃんと伝えることができませんでした。ごめんなさい、飯野さん。
 
たくさんの人が、ブログでも、Facebookでも、そしてTwitterでもあなたへの感謝を表明しています。
飯野さんがどれほど多くの方に愛されていたか。飯野さんがどれほど多くの人たちに力を与えていたか。
僕にとっても、心から尊敬する飯野さんから「大切な友人」と認めてもらえたことは何より大切な宝物です。今僕がこうして仕事をできるのも、あなたから認めてもらえたことが何より大きな支えになっているからだと思っています。
あなたの大切な友人であり続けるために、もっともっと学んで成長しなければ、って、僕は心の中でずっと(心地よい)プレッシャーを感じていたんですよ。
 
★★★
 
飯野さんと僕が知り合ったのは2009年。Twitterでのひょんな会話がきっかけでした。
 


僕らはこの会話から意気投合して親しくなりました。そしてTwitterでなくメールで直接やりとりして、こんな言葉をもらいました。この一言は、僕は今でも忘れません。
 

いろいろ考え方の根本が近しそうで嬉しいです。
 
ありがたい出会いだ。
 
メシ食いましょう!

 
 
まさかあんな怪人有名人と二人きりで食事することになるなんて。
あの風貌、そして数々の勇ましい逸話を持つ彼を自分の店で迎えるまでの間、僕は期待感5%、恐怖感95%で、落ち着いて座っていられなかったことを今でも覚えています。
でも、実際に会って話をしてみて分かったのは、飯野さんは本当にとてもとても繊細で心優しい人だったということです。
僕が今まで会った中で、彼ほど頭が良くて、彼ほど優しくて、彼ほど繊細な人はいません。
 
今になって改めて思うのは、僕は彼の友人というより、結局はずっと飯野賢治という人の大ファンだったのだなということです。彼とは遊びでも仕事でも、数え切れないほどの会話の機会を持ちましたが、そのどれもが、僕にとっては笑いと驚きにあふれた「トークショウ」でした。fytoのオフィスに行くのは、本当に楽しみで仕方がありませんでした。結局僕はいつも彼に楽しませてもらっていたのでしょうね。彼のそんな「人を楽しませる才能」から力をもらっていたのは、僕だけではないはずです。
 
彼と話していると、仕事の打ち合わせでも、単なる世間話でも、驚くようなアイデアが次から次へと出てきます。いつだってユーモアにあふれていて、どんなに苦しい状況でも明るく前向きに笑って語れるようになれました。
 
例えば、震災で倒産の危機にあったウチのお店を支えようと企画してくれたのは、ヨシナガさんとの笑いにあふれたトークイベントの番外編「気になること。」の番外編であり、また「とんかつを立ち食いしながら踊るパーティ」でした。
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とんかつパーティでは、外食を自粛する気分が蔓延していたさなか「みんなで一緒に食事をしよう!」と呼びかけ、わざわざタクシーで機材を持ち込んで本格的なDJまでやってくれました。とんかつを頬張り、お酒を飲んでガハハと笑っていた彼の姿に、僕らはどれだけ勇気づけられたことでしょう。
どんなにつらい状況でも、人を楽しませることを忘れず、笑顔で切り拓いていく。彼が教えてくれたのは、そういう生き方でした。
 
誇張でもなんでもなく、飯野さんと出会ってから、僕の人生は本当に楽しいものになりました。僕が仕事をする目的の一つは「どうやって飯野さんに『中村さん、やられた!これ、すごくよいね!(-:』と言わせるか」だったといっても過言ではありません。
飯野さんとの出会いを「ありがたい」と思っていたのは、むしろ僕の方だったのです。
僕はいつも飯野さんに救われていたんです。
 
飯野さんと交わした会話は、Twitterを見返しても、メールを見返しても、今でも学ぶことにあふれています。
なんでもっともっと彼と話をしなかったんだろう。
オンラインから姿を消したときだって、なんでもっと無理にでも彼に連絡を取って引っ張り出そうとしなかったんだろう。
僕はこれからも、それをずっと後悔し続けるんだろうと思います。
 

 
実は(これは今まで誰にも話していなかったのですが)ミイルは僕と飯野さんの「シンクロニシティ」から生まれたサービスでした。
僕がミイルのコンセプトを何気なく飯野さんに見せたとき、「ちょっと待て、おい!それって!!」と言いながら興奮気味に見せてくれた一枚のシート。そこには、全く同じサービスが描かれていたのです。
もう、二人して驚いたことは言うまでもありません。
 
「うーーん、最近はクライアント仕事ばっかりだからさあ… 僕も久しぶりに自分でサービス作りたかったんだけどなあ… でも中村さんがやるんなら、じゃあ別のことでもやるかなー」
 
そう言って預けられたのが、今のミイルだったのです。
 
リリースしたあと、一緒にアプリを見ながら「うん。いいねいいね。これなら及第点。僕は滅多に人の作ったものに及第点なんて出さないんだけど、これなら60点はあげられる。でも、まだまだ弱いよ。ただの写真じゃダメなんだよ。もっともっと、人の手触りを伝えられるような、人の手垢が残せるような工夫をしなきゃ」と言われたのが、飯野さんから最後にもらった、ミイルへのアドバイスでした。
それ以来、僕もずっとそれを考えているけれど、でもまだその答えは見つかっていません。
そして、彼に「これでどうだ!」と胸を張って見せられるようになる前に、飯野さんはいなくなってしまいました。
 
でもね。
 
飯野さんにいつか「飯野さん、こういうことでしょ?ちゃんと飯野さんに認めてもらえる楽しいサービスにできたよ!」と報告できるように、ミイルを大切に育てていきたいと思っています。
待っててください。飯野さん。
 

 
本当は、彼とやりとりしたメールをブログで公開するのはルール違反なのかもしれません。でも、これだけはブログに書いておきたいと思うことがあります。それは、彼と出会ってまもなく、彼と二人で交わしたメールの一節です。
 
それは、今改めて読んでみれば、彼の強い思いが込められていたように思えてなりません。
彼が僕に興味を持ってくれた理由の一つがこのメールの、この一文にあるのだとしたら。もしそうだとしたら、僕は僕なりに彼の思いを受け継いで、そして僕なりの方法で、彼の思いを形にすることが、彼への恩返しなのかもしれません。
 

実は、僕は、前からずっと、場所の経営がしたいんです。
将来は、そうするのだと思います。
ホテルとか、レストランとか、レジデンスとか
いろいろ混ぜた、新しいカテゴリーの場所を作りたいんです。
「リゾートホテル」という言葉を作った人がいるわけじゃないですか。
その言葉が約束するもの、提供するものは、通常のホテルとは違って。
それと同じように、新しいカテゴリーを作りたい。
 
そんな流れで、2〜3年前に、旅館のリニューアルの仕事をやって
●●●(hitoshi注:念のため伏せさせていただきます)の仕事や
レストランのリニューアルをやったりしました。
 
(中略)
 
> 僕も、創業して10年経ちますが、飲食は枯れたように見える
> 産業だからこそ、大きなイノベーションの余地がたくさんあると思って
> いろいろと試行錯誤してきました。で、既存店もようやく
> 落ち着いてきましたし、またそろそろ何か新しいことを始めたいと
> 思っているところでもあります。
 
僕は、いっぱいイノベーションの余地があると思いますよ。
 
いつも思うんですけど
子どもが、ディズニーランドに行きたい!って思うように
大人が、「わーいつか行ってみたいなあ」と思えるような
場所って、例えば、ぜんぜんないじゃないですか。
特に東京にいると。
地方にいれば、ミッドタウン行きたいとかあると思うんですが。

 
彼の「将来は、そうするのだと思います」という言葉は、結局実現することはありませんでした。でもこの思いを、僕を始めとした多くの人たちが受け継ぎ、より楽しくてワクワクする世界を作ることに繋げていければ。
 
飯野さんには、いつも僕らには見えていないものが見えていました。彼には、他の誰もが作り出すことのできないものを生み出す力がありました。
確かに僕ら一人一人では、彼の才能には絶対にかないません。でも、みんなが少しずつ彼の思いを受け継ぐことができれば、いつかは飯野さんが思い描いた世界にたどり着けるのではないでしょうか。
 
★★★
 
飯野さん、本当に今までありがとう。
僕はあなたから多くを学び、たくさんの勇気と自信をもらいました。
僕が死ぬまで、あなたはずっと僕の目標でありつつづけるでしょう。
 
正直言うと、まだ、あんまり涙は出ません。お通夜に行って、飯野さんの写真を見たときにはさすがに涙が止まらなかったけど、でも、本当にあなたがいなくなった喪失感を感じるのは、まだまだこれからなのだと思います。
 
でも、あんまり泣いばっかりいてもしょうがないんだよね。
つらいときこそ笑うんだよね。大変なときこそ笑うんだよね。笑って、そして自分の道を拓いていくしかないんだよね。
 
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商標取ってないのに、勝手にTMとか付けてたのかよ… 今さら気づいた。笑った。